こんにちは、七転び八起きが現実になりつつある、平山です。

ふと自分の過去を振り返ってみると、22歳から36歳の14年の間に、計4回も起業してました。
それも全て同じ業種で、どれも商売自体で失敗した訳では無く、です。
これはなかなか珍しいと思いますので、記事にしてみました。

札幌パソコンサポート・パソコン修理・パソコントラブル対応のプロ業者

1回目の起業:大学在学時にサークルの仲間達と起業。

最初の起業であること、楽しい事や辛い事の”山と谷”が多かった事、22~29歳の最も情熱的な時期を過ごした事から、一番感慨深い時代ですね。この時期に学んだあらゆることが、今も生活の中で生きています。

起業のきっかけ

私が20歳の時、「事業家を育成する」というコンセプトの宮城大学事業構想学部(新設2年目)に入学しました。自分はそこのビジネスサークルに所属し、1年次から代表を3年間務めました。その後、私より1年先輩の第1期生達が卒業する年に(私が3年生の時)、「『卒業生第1号が起業』という名目で、ビジネスサークルを法人化し、それなりに地元メディアでも取り上げられました。これが1回目の起業です。メンバーは、私の師匠格である社会人学生R氏、それにサークル代表ではあるがまだ学生の私、それに2月時点でまだ進路の決まっていなかった卒業生W氏(卒業生である彼が社長になりました)。3名がそれぞれ3つの主要事業を束ねるという3頭体制で新会社をスタートしました。私の担当は、パソコン教室の運営、パソコン家庭教師の派遣、出張修理など、今とほぼ同じ業種です。

起こるべくして起こった分裂

その後数年は順当にビジネスを継続していましたが、徐々に3つの事業間や3人の共同代表間で様々な不均衡が生じることとなり、最終的に私と私の担当部門は独立する事になりました。組織運営など分かっていなかった、素人経営の結果とも言えます。独立の際、私は会社から自分の担当事業を買い取る事を打診しましたが、交渉の過程で価格のつり上げ(当初の5倍)や条件の後付け等がされた為、買取りは断念し、ゼロから再出発することを選びました。そもそも、顧客開拓、人材の確保と教育、教材の作成、ワークフロー構築、基本的な経理、CRM、マーケティング、つまり担当事業のほぼ全てを、私と私の教育したアルバイトで運営していましたので、独立には何の障害も(技能面では)ありませんでした。

身ひとつで独立

退職金等は無し、顧客情報や機材や育てたスタッフは全て会社に残し、私が個人的に持ち込んだパソコン1台だけを持っての退社となりました。逆に社長からは1000万の迷惑料を請求されたり、同じ業種の仕事はしません!との誓約書にサインを求められたりしましたが、従いませんでした。念のため、こちらから未払いの役員報酬を請求する旨の内容証明を送り、訴訟するなら対抗するぞ!と意思表示をしたり…まあ要するに、長年の友人との最悪の形でのケンカ別れ、という非常に後味の悪い幕切れとなりました。

2回目の起業:大変ながらも婚約者との新生活

人生でもっとも凹んでいた時期でしたが、様々な方の支えで立ち直り、穏やかな暮らしでした。あの、大震災があるまでは。

株式会社設立

会社法が変わり、多くの資本金が無くとも株式会社が作れるようになった時期でした。後の妻となる恋人が経理、私が営業と現場、という形で新会社を始めました。前の会社への義理を通すべく、以前の取引先やお客様には、個人的にも親しかった人にだけ開業の挨拶をしました。商圏も仙台市ではなく仙台市の北に位置する黒川郡を中心としました。が、他にも噂を聞いたりわざわざ各方面に問合せたりして、以前の私のお客様が次々と新会社の顧客になってくれました。開業当初は数々の体験や不安から鬱状態になりかけていましたが、そういったお客様や診療科の先生、恋人や家族の支えによって立ち直り、それからは3年ほど穏やかな時期を過ごしました。

東日本大震災、原発事故

そんな頃、2011年3月11日のことです。東日本大震災と福島第一原発の事故が起きました。ちょうど今後の人生設計、つまり結婚と子育てについて恋人と真剣に相談していた矢先の出来事でしたので、「放射性物質の拡散がどの程度になるのか?」という点は、我々カップルにとって、非常に重要なポイントでした。放射性物質の漏洩は今後数十年続くと見られ(事実2014年2月現在、漏出は止まっていません)、妊婦または妊娠予定の女性と胎児にとって、海、山、川から採れる水や食物からの汚染物質の生体濃縮は、とても大きなリスクでした。数値のごまかしや産地偽装が起こる事も、容易に想像されました。

閉店の手続、そして知り合いもいない、新天地へ

長年支えて頂いたお客様への責任として、年会費を返還し、その後の対応などは、学生時代からの知り合いA氏への引継ぎを行いました。事業の売却という手段もありましたが、この地に残ってくれる知り合いへのせめてもの気持ちとして、すべて無償で譲渡しました。その代わり、くれぐれも皆様へ手厚く対応してくれるようA氏にお願いしました。避難先は、食料自給率が高い(食品偽装の心配が少ない)・原発の数が少ない・「福一」や「もんじゅ」から物理的に距離がある・その他の有害物質(PM2.5や黄砂等)が少ない・自主避難者への受け入れ態勢がある・といった理由で、北海道を選びました。閉店や引越の手続や、恋人と入籍する準備などで、移住は震災発生から3か月後の、6月末になりました。

3回目の起業:試される大地でのスタート

不安やストレスに追われながらの再出発でしたが、色々な方に助けられたり、数々のドラマティックな展開が待ち受けていました。

就職活動を断念しての開業。その直後、とある企業からのお誘いが

北海道への移住後、7月7日に現在の妻と入籍し、本籍を札幌に移しました。また、当地での就職活動を開始しました。しかしすでに私の年齢が30歳を超えていることや、そもそも札幌での就職率が全国でも最低クラスであったことから、なかなか良縁に恵まれず、結局はまた同業種で開業することにしました。幸い「避難者の再出発!」という形でテレビ取材などでも取り上げられ、出だしは好調でした。そんな時、以前に履歴書を送っていたとある企業の社長から電話を頂き、お会いすることになりました。

事業丸ごとの身売り、という形で就職

面談してくれたのは、札幌で大手の便利屋を経営するM社長でした。聞けば、M社長は震災避難者の支援に力を入れて居る事、また、便利屋事業の中で、パソコンサポート部門が手薄であることなどを伺いました。私はこれ幸いと、「では現在の顧客ごと(少ないけれど)雇って下さい!」とダメ元でご提案した所、トントン拍子で話が進み、翌週からその企業で働くこととなりました。こちらにはその後2年間勤め、2年目には会社全体のWeb戦略や各サービスの販売促進を統括する役員として、重用されました。

順調に出世する中、2度の追突事故と後遺症

こんな具合に、移住したことによって、むしろ過去のキャリアの中でも最も安定した生活を手に入れた私でしたが、またしてもトラブルが発生します。一度目は2012年6月の信号待ち中の追突事故。二度目は2012年12月の良く滑る路面での玉突き事故。半年の間に2回の交通事故に遭い、かなり酷い頸椎捻挫(ムチ打ち)に悩まされました。一日の大半を酷い眩暈、頭痛、吐き気に襲われ、役員としての業務や責任を果たせなくなってしまい、結局、事故後3か月で病気退職を願い出て、療養することとしました。

4回目の起業:現在の「札幌パソコンサポート」をスタート

色々ありましたが、なんとかやれています。人生万事塞翁が馬ですね。

後遺症の対応と生計を両立させる方法

会社を退職後、数か月の療養生活を送り、整形外科や鍼灸などを試しましたが、症状は変わりませんでした。しかし、その中で、うまく症状と付き合っていく方法を学びました。例えば首をテーピングで固めたり、1日に何度も定期的に患部を温めたり、勤務時間を制限してムリをしない等。そうして、自分のペースで働くことのできる自営業にて、再度リスタートしました。今も週に一度の定休日にはリハビリに通い、首筋にはいつもテーピングをしています。

生かされる経験

ただ、何度も起業したおかげで、この業種におけるスムーズな立上げ方、集客方法などを良く知っていることは、幸いでした。お客様のニーズや、どうすれば喜んで頂けるかも熟知しています。特に苦労することなく、新しい4度目の商売も、そこそこ順調に推移しています。何度か企業に身を置いていたり、苦労してきたおかげで、一般企業の方や一般ご家庭の皆様の立場に立ってコミュニケーションできていることが、細く長く商売を続けられている理由だと思います。何事も下積みは重要ですね。
その結果、開業から半年たった現在も、潰れることなく営業できています。願わくば、今度こそこのまま何事もなく暮らして行きたい所ですが、はてさてどうなることやら…